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一言物申したいとき……例えば相手に対して全力でやってほしいとかのアドバイスを言いたいときってありますよね。しかし現代では言葉を一つ間違えてしまうと簡単に炎上してしまうものです。
先日TwitterXで超有名人の方の言葉を拝借したツイートが炎上していました。引用は控えますが、どうやらあるキーワードに過剰反応したユーザーの方々が多かったそうなのです。ちなみに内容の中身は「自分主体ではなく周りの人間や環境、情景を感じ取り、その先にいるお客様の感情を揺さぶるような人になりなさい」(あくまで私の解釈です)といったものでした。私自身もそういう仕事をしているので、ツイートを見たときは「会社・声・物書きに関係なく、様々な刺激を受けて自分なりに肥やしていかないとな」と改めて思った次第です。
しかしながら、その方がいらっしゃる業界をかなり遠い世界から見通してみると……確かに感性で人間の尊厳を殴り合っている文化は根強くあります。特に全く違う人物、時にはヒトですらない異形にならないといけない瞬間が当たり前のようにある界隈です。人格改造セミナーよろしくしてまで自分を壊し、他人を作らないとお客様は満足していかれません。
だから「その言い方はパワハラだ」「時代錯誤」「価値観をアップデートできていない」などの意見は出て当然。傍から見ると不適切な言動・思考なわけですから、どんなに言葉の背景に人として大切な要素が含まれているとしても、令和の価値観では不寛容として見られてしまうわけです。
ただちょっとその人がおっしゃりたいことは俄然として共感する部分はあって。それは私がその人と「似たような仕事」をしているからではなく、ここ数年のコミュニケーションでいろいろと思うことがあったからなんです。
ネット・対面問わず、相手が口にする言葉で心にダメージを追うことってあるじゃないですか。私はどちらかというと敏感なほうですが、自分が放つ言葉に対しては「舌禍・筆禍がありすぎる(そこまで言わなくてもいいだろ)」というレベルでキツいのだそうです。
なので私も極力気を付けてはいるものの、やっぱりいざというときになると舌禍スキルが顔を出してしまいます……「ヤバいやつにはヤバいやつをぶつければ後はどうにでもなる」と誰かが言っていたような気がしますが、私の場合は「ぶつける」ではなく「ぶった斬る」ニュアンスに近いみたいです。
言葉って身だしなみ以上に育った環境が出てきますよね。生まれ故郷や家庭環境的な意味ではなく、今身を置いている界隈であるとか会社の文化とか仕事上で求められるマナーとかがにじみ出るというか。
キーワードばかり気を取られている人たちは「その言葉自体に傷ついた人々がいる」のを見ているし、私のように言わんとしていることを捉えようとする人たちは「人間として必要なモノの見方」を探そうとしている――つまり「令和の価値観」は「言葉だって身だしなみ」であることを教えているのではないかと思えてならないわけです。
だから今その投稿が炎上しているのであって、アップデートをしている人たちは常に言葉の身だしなみを整えて発信できているのでしょうね。
言葉を司る端くれ者としてはそういうマナーは常日頃見られていると思っています。少なくとも、会社と司会の現場はそうです。
ただイチ物書きとしては、文章作品で言葉の身だしなみを気にする必要はないと考えています。小説なんて良い例で、とびきり汚い言葉を使う人もいればやたら小綺麗な言葉を使う人がいるわけですよね。安易に最適化に走っても結局は「つまんない」と思われるだけです。
さて、ここまで読んでくれたあなたに伺います。
私が書いた「つまんない」という言葉の背景について。
あなたは今どのようなヴィジョンが見えていますか?

