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今週のお題「卒業したいもの」
リアルでもネットでも「努力家」の印象が強いらしく、結果よりも過程で一定の評価をされているように感じます。当の本人は努力好きでも頑張り屋でもなんでもなくて、ここまでやらないと歯車が回らないからなんですけどね。
私は何をやっても不器用で、人以上にやっておかないと人並みになることができません。精神医学の場では幼少期の過ごし方で決まる部分もあるみたいですが、そのたびに変えることのできない過去を呪っています。
称賛を送る人のほとんどは私の過去やバックボーンを知らない人ばかり。エピソードとして言っては同情されたり応援宣言されたりするだけ。
素直に受ければ良いものの、性格の悪さが出てしまうんですよね。「応援って何をするの?」と。「いい人アピールするんじゃないか」とか「何もできないことを宣言しているようなもの」だとか。結局応援って何を意味するんだろうとふと思うわけです。
※もちろん応援はとても嬉しいです!いつもありがとうございます!
人を思う気持ちって自分のエゴに使っちゃいけないと考えます。
もし本当にその気持ちが強ければ、応援合戦的な意味合いだとしても声が枯れてもやり続けられる自信があるかどうかを問われると思うんですよ。それがネットであれば「過ちを犯した」「レールからはみ出している」人間をいつもどおり接せれるかどうかにも当てはまる気がして。
だって頑張っているのは自分が犠牲にならないと事が運ばないだけで、そんな犠牲は必要なことだと自覚しているからなんですもん。であれば自分がこの世で一番いらないわけですから、それに立候補して当然ではありませんか?
そんな自分に悲しくて、やりきれなくて、助けてほしいとも思ったりして、でも誰も助けてはくれなくて。似たような人を見かけると「何かしよう」と考えて行動しても、結果は裏目に出てしまいがちで。だから自分はいらない子なんだと決めつけたほうが一番早いんですよ。
そんな自分を愛せたとしても、他人が愛してくれるかどうかは別問題。ありがたいことに愛してくださっている人は多いですが、称賛と叱咤を好き嫌いで区別する癖が長年の悩みなわけで。
自己肯定が高くても一回の叱咤で底が抜け、その修繕で体力を削って生きています。
わがままですが本音を3つ言います。
①正しい正しくないに関わらず、決断を下した私を慰めてほしい。
②バックボーンを知ってほしい。
③本気で応援する気があるならそれ相応のことをやってほしい。
かまってちゃんで愛情を欲している自分がとても醜い!
ただひとつ「寄り添ってほしい(※ただしいつもの感じで接して)」と言えばいいだけなのに。
為すために頑張るのではなく、普通になるために頑張っているのにね。
その手の循環、いつになったら止まるんでしょうね。